論文をコピペするなんてとんでもない
私は1年生を5回やった。
たぶん、僕はこの3年間で大学に通った日数は1年分にも満たない。
8年目で大学を卒業した。サークルの後輩が先輩になった。真の同級生はひとりだけになっていた。2000年のことだ。まだ先進理工学部ではなかった。
卒業論文は30ページ以上書け、という条件を守って33ページぐらい書いた。4コア並列コンパイラを作ったらたぶんこのぐらいすげぇ、という内容であり、稚拙である。7分の発表(と3分の質疑応答)もひどいものであり、
「キミ、発表の練習してないでしょ」
が第一声であり、それが論評のすべてである。
そんなダメ学生であったが、コピペはしていない。していないどころか情報学科の2回生であったため、コピーする元がなかった。
そういう意味では電気工学科などで日常だった「先輩からもらったレポートの語尾を変えて提出する作業」はうらやましくもあった。だがどう見ても非生産的である。手書き必須なのも意味が分からなかった。
私は卒業論文をコピペしたくてもできなかったわけだが、歴史ある他の学科においてはコピペは可能である。だがむしろコピペすらできない人もいた。それは私の先輩の一人である。
なぜ私がそれを知っているのか?
その前に先輩が私に相談を持ちかけてきたところから始めよう。
私が5年生の時だ。電気工学科の先輩の卒業論文は画像圧縮についてだった。jpeg圧縮の前段階でwavelet変換をする際、どのように量子化すれば画質を定量化出来るかといった分野だ。簡単に言うと、PC9801のmagとMSX2のSCREEN8はどっちがキレイかという問だ。
先輩はC言語のソースコードで困っていた。「研究室の先輩にもらったけど動かない」という壮大な火消し案件である。そこでまず私はwaveletとjpegと量子化とそれら諸々について先輩の持っている本を読んでなんとなく理解した。そして要件が見えてきたところでソースを8割ぐらい消して新たに書いた。2割は数字の羅列部分であった。
私はさらに程よく結論に結びつくように調整も行った。論文に掲載した時点で見て分かる程度に原画像と差が出るように出力画質を劣化させた。
私は最後に「ソースコードの再コンパイル方法から画像出力の方法を研究室の他の学生に説明する方法の説明」を先輩にマスターさせた。先輩は多いに安心した。
さて話を戻そう。
先輩は論文のテーマを自分で考えたとは思えない。そもそも動かないソースを使って論文を書いた「先輩の先輩」はどうやって論文を完成させたのであろうか?
そもそもなぜ同じ研究室の他の人に相談せずにサークルの後輩に相談したのだろうか?
大学生が学校を卒業するにあたり、他人がお膳立てして出来上がった論文を使ってよいのだろうか?それがホープ軒のラーメン一杯分の価値で良いのだろうか?
疑問は尽きない。
そもそも当時の大学には3つの民族がいた。最強バカ、真面目、田舎者が33%ずつ存在していた。
最強バカはかつてのエリート小学生が中学高校のエスカレータに乗って大学に入ってきた人たちだ。理工学部なのに微分も数列も平方根も分からない。だが頭の良い奴に遊びを教える対価を払って後ろを着いていく能力は最強だ。努力をせずに済むならどんな努力も惜しまない。
真面目はかつてのエリート中学生だ。高校でそれなりの試験をパスしないと大学に入れないのでそこそこ勉強もしているし、そこそこ遊んでいる。ノートがキレイなタイプ。スキあらば手を抜こうと狙っている。
田舎者は受験戦士。刺激的な都会の遊びに洗脳されて奈落に落ちるルートを避けられれば、以後は順調。コミュ力は相対的に低め。
最強バカは4年たってもほとんど最強バカのままである。よって大学院には行けないが、ほぼ全員が立派な卒業生になる。もりもりバイトするので金持ち。
真面目は不真面目になるパターンが多い。就職に有利だからという理由で半分ぐらいは大学院に行く。ときどき学籍番号ごと消えることがある。真面目なので金持ち。
田舎者は最も留年しやすい。勉学に目覚めると圧倒的だが異性に弱いパターンも散見された。バラエティ豊かだ。家庭教師をすると金持ち。遊んでると貧乏。
この3つの民族が、自分の持つスキルを駆使して卒業という肩書きを目指してうごめくのが大学という場所なのだ。いろんな意味で頭の良さを競う場所だ。
先輩は真面目に分類される。そして大学院にも行った。青KEN使い。
別の先輩がKONAMIに内定をもらい、内定者に出される課題をもらった。
「mc68000におけるアドレスレジスタ相対アドレッシングって何」
の話はまた次回。